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旅のノート オン&オフ

アンナプルナしゃくなげ街道を行く
中野 聡
2000(平成12)年3月21日から30日まで、豊橋創造大学の教職員でつくる山歩会のメンバー4人は、ネパールのアンナプルナ連峰を望む、通称「しゃくなげ街道」のトレッキングを行った。純白のヒマラヤの山々に真紅のしゃくなげが映える、魅惑的なルートである。今回の行程は、シンガポール経由でカトマンズへ入り、アンナプルナを望むポカラの街へ国内便で飛ぶ。そこから専用バスで標高約1,700mにある村、ルムレLumleに入り、チャンドラコットChandrakot、ガンドルンGhandrung、タダパニTadapani、ゴラパニGhorepani、プーン・ヒルPoon Hillの展望台を経てヒレHileからナヤプルNyapulの村へ下る(地図参照)。総距離約30kmを6日間かけて歩く「ビスターリ(ネパール語でのんびり)」コース。プーン・ヒル付近の標高は約3,200mで南アルプスの北岳程度、高所の北側斜面を除くと積雪も少ない。さらに、ネパールの緯度の高さや高地に点在する村々が、このコースを歩き易いものにしている。メンバーには、小島先生ご夫妻(トレッキングは先生の退職記念を兼ねていた)、藤本、中野の他に、山旅を企画されたアルパインツアー社のツアーリーダーである船尾(随分お世話になった)、名古屋から針谷、東京から飯田夫妻と北田の各氏が加わり、さらに現地でペンバ・ノルブさんらシェルパ3名、シェフとポーター各数名が合流した。


3月21日(火)

名古屋空港からシンガポールへ飛び、そこで東京からのグループに合流する。夕方は、常夏のシンガポールを見学。名古屋空港まで車で1時間半みていたが、思えば今日は平日、しかも春休み初日。東名こそスムーズだったが、東名阪に入るとすぐ渋滞。気ばかりはやるものの、楠インターを降りてからもー向に動かない。思わず、学生時代にパリのシャルル・ドゴール空港でロンドン行きの国際便に乗り遅れたのを思い出した。パリ・ロンドンは一日に何便でもあるが、名古屋・シンガポールは、何日待ったらいいのだろう。結局、空港近くの駐車場に車をあずけて出発ロビーに着いたのは、集合時間に20分遅れの8時20分だった。団体カウンターには、小島夫妻や藤本さん、船尾ツアー・リーダーを初め、名古屋から参加する5人が揃っている。小島先生は、日にちを間違えたのかと思ったと言われたが、さもありなん。一昨年の夏山は、北アルプスの剣岳から黒部渓谷に下ったのだが、時間に無頓着な私は、他のメンバーと合流する日を一日取り違えて計画を立てていたのである。さらに、現金をほとんど持っていなかったためキャッシュ・ポイントを探し、荷物検査ではガスバーナーのカートリッジを2個没収された。これはアルパインツアーが預かってくれたため帰国時に回収したのだが、トレッキング中は毎朝紅茶がサービスされ、苦労して持参したバーナーを使うことはなかった。前途多難なすべりだしとなったが、余裕を持って行動する他のメンバーにとっては何でもなかっただろう。出国管理も長蛇の列で、昨秋にヨーロッパへ行った時と随分違う混みようだ。

シンガポールまでは約6時間のフライト。シャンパンを飲みながら007の映画を見ていると、そこは南国。夕方というのに28度の湿った空気に、冬のない国に来たことを思いおこした。ニュー・アジアという政府の謳い文句通り、シンガポールは近代的な都市である。1824年にジョホールのスルタンによってイギリス東インド会社に譲渡されて以来、この島はイギリスの東アジアにおける拠点となった。戦時中の日本軍占領を経て、59年にイギリス連邦の自治国、63年にはマラヤ連邦などとマレーシア連邦を構成するが、中国系とマレー系の民族対立の激化などを背景に、65年に分離・独立した。整然とした街路や芝を敷き詰めたオープンスペース、林立する高層公共住宅などのインフラストラクチャーは、ロンドン近郊のニュータウンを思わせるが、ビジネスエリアの高層ビル群は、東南アジアの大都市に共通する景観でもある。空港からホテルへ向かうバスに同乗したガイドは、流暢な日本語で、淡路島ほどの国土は外国資本による買収を避けるために国家が管理しており、一部富裕層のものを除く大半の住宅が高層マンションだと説明した。マンションの値段は、日本円で2000〜3000万程度するが、各部屋が日本のものよりゆったりしているため、ここの3LDKは占有面積では日本の5LDKほどに相当すると言う。確かに日本の都市部のインフラと住環境は、先進国のものとしては恵まれていない。環境を量的あるいは質的に整えること以外、社会がそこで生活する人々に対してなしうることはないと思うのだが。もっとも、軽犯罪に対する罰金で有名なシンガポールは、税金でも群を抜いている。何しろここでカローラを買うつもりなら、日本ではBMWが手に入るという説明。

東京から合流するメンバーを待って、シンガポール植物園を見学する。すばしこいリスが走り回るその公園は、ハイドパークを熱帯雨林に移設したような趣きがある。汗をかきながらゴムの木が生い茂る公園を見て回り、ホテルでタ食をとったのは8時だった。中華料理を前に自己紹介をするが、8人中4人がすでにヒマラヤのトレッキングを経験していた。ツアー・リーダーの船尾さんは、7000mクラスにアタックしており、シェルパのペンバさんは70年代にエベレストに登頂している。この日は、ぜいたくなツイン・ルームを針谷さんと同室する。夜はエアコンが効きすぎて寒いくらいだったが、熱帯の外気は、明け方になっても蒸すようだった。
3月22日(水)

朝5時に起き、ルームサービスのパイナップル、マンゴとパンで朝食を済ませる。なぜかボーイが北田さんの部屋と取り違え、1人分の食事しかなかった。交換するのに5分ほどかかり、冷え切ったコーヒーを飲むことになる。シンガポール9時発、カトマンズまでは約5時間のフライトだ。日本との時差は、なぜか4時間15分と中途半端。インドのいくつかの都市では、GMT差が30分単位のところがあるが(デリーやカルカッタは5.5時間差)、15分というのはそうない。飛行機は、4時間弱でインド上空に差しかかる。ガンジスが、何十本もの大小さまざまな流れをつくり、深緑色の大地の間を蛇行している。やがて、はるか右前方にヒマラヤの東端を占める山々が白い姿を現わした。カンチェンジュンガやエベレストの山域である。春の暖気が生みだす霞に、白銀の頂きが浮かんでいる。シンガポール航空機は、昼頃に喧騒と歴史的沈黙がなお支配する街、カトマンズに降りたった。

今乗ってきた航空機とその乗客くらいしかいない飛行場をでると、小銭獲ぎのにわかポーターの子供達がさっと寄ってくる。バスの3mぐらい手前で、私の若物を奪うようにして持って行き、窓から手を差し出すちゃっかり者もいる。通りには車、人、自転車が入り乱れ、クラクションが黄色の砂ぼこりの中にかすむ。その横を、午がゆっくりと歩む。ホテルまで30分と言われたが、旧式バスが人混みの中を進むのでなければ、10分とかからないだろう。東南アジアで一番豊かな国と貧しい国の落差は大きい。ただ、どちらの国の人間がより幸せかは、一概には言えまい。われわれの生活には、社会が提供しうることと個人が解決しなければならないことが常にあるし、結局は、生活の質に対する判断そのものの問題だと思うのだが。

カトマンズ観光にあてられた半日は、全員がバクタプールBhaktpurとパシュパティナートPashupatinathで過ごすことになった。パクタプールは、カトマンズの東にある旧市街のひとつで、規模はさほど大きくないものの、17世紀の王宮やヒンドゥー教寺院が広場を取り囲むように並ぶ。赤レンガや石造の王宮やシバ神をまつるストゥーパには、木彫りの精緻な彫刻が施されている。パシュパティナートは、空港からそう離れていないところにある大規模なヒンドゥー寺院で、カトマンズには類似したものが3つある。われわれのグループには、ブッダさんという名のガイド以外ヒンドゥー教徒がいないので、バスは寺院の裏側へまわった。5分も歩くと、数本の塔で構成された白いストゥーパやえんじ色に塗られた木造の寺院が、水の枯れかけた川の対岸に姿を現わす。石造の寺院やストゥーパの入り口は、ロマネスクのようなきれいな半円を描いている。寺の前の土手には、まきが高く積み上げられ、白煙が川面にたなびく。火葬である。煙は、多くの人々の祈りの声になびくように、あちこちから静かに上がっている。別の場所では、黄色の布にくるまれた遺体が静かに横たわっている。そばにたたずむのは、家族だろうか。ガイドが、ヒンドゥー教では女性は火葬につき添わないんです、と説明した。少なくとも、遺体のロに火をつける時には、ここを離れる。誰かがなぜですかと尋ねたが、その回答を期待してもいなかっただろう。焼かれた灰は、川にそのまま流されるため、ネパールには墓がほとんどないという。

ヒンドゥー教は、しばしばシバやビシュヌなどの多神信仰やカーストに結びついた婚姻などを想起させるが、慣習的側面が強いこと−例えば、聖典であるベーダはキリスト教の聖書のようには信者の行動の指針として機能しない−や輪廻思想は、仏教に通じるものがある。ここの時間は、絶えず循環する。ネパールは、南のインド=ヒンドゥー系文化と北のチベット=仏教系文化の接点に位置する。それにもかかわらず他地域にみられ、また今なお続く宗教間の抗争がなかったのは、インドの大地に育まれたふたつの宗教の類似性だけではなく、それらが民衆の間に単一の主観を創りにくいしくみを持っているからかも知れない。

パシュパティナートでは、20〜25才位の物売りにつかまった。寺のそばのみやげ物店の前でナイフを眺めていたのを見たのか、手にはヤクの骨に彫りこみをつけた柄のナイフを持っている。インド系の端正な顔立ちの青年で、誰かが一生懸命彫ったのだろう、Nepal Armyと英語で刻まれている。船尾さんから刃渡り17cm以上のものは税関を通らないと聞いていたので、英語で大きすぎると言うと、今度はずっと小さいものを持って来た。なぜか値段は前と同じ2000ネパール・ルピー(約\4000)。いらない、とは言ったものの、ひとたび会話をしてしまうと自慢したリ懇願したりしながら、どこまでもついてくる。しまいには、他のメンバーにパシュパティナートの説明を始めた。これは万事休すと、ガイドに適正価格を聞くと、しばらくいじくり回していたあげく、これは高いだろうと言う。グルだと思ったが、ここは値切った方が得と思い、1000ルピーなら買うと言った。まず半分に値切れというのが、船尾ツアー・リーダーの入れ知恵である。彼が悲しそうな顔をするので、あきらめて立ち去るふりをすると、日本円で2000円になった。現行為替レートでは、1000ルピー以上になるらしい。帰路、似たようなナイフが1000ルピー以下で売られていたのには閉ロしたが、船尾さんは、もともと値段がないのだから自分がいい買い物をしたと思っていればいいんですよ、となぐさめてくれた。ここすらも、グローバルな市場経済の中で動いている。

バクタプールにて
3月23日(木)

カトマンズからネコンNecon航空機でポカラPokharaへ、昼食後専用バスでルムレLumley村に入る。そこから初のキャンプ地、チャンドラコットChandrakotまでは徒歩2時間ほど。朝5時起きでカトマンズ空港へ向かった。昨日とは異なり雲り空で、誰もがヒマラヤの眺望を心配していた。実際は、それどころではなかったのだが。駅の待合室ほどの大きさのカトマンズ空港に着き、飛行機を待つ。30人ほどが乗るプロペラの双発機がポカラへ向けて飛びたったのは、10時過ぎだった。カトマンズの標高は約1500m、ポカラのそれが800mほどなので、若干高度を下げることになる。ポカラへ近づくにつれて雲が多くなってきたので、シンガポール・カトマンズ便のようには長大な山脈は見られないなと思っていたら、そのうちに雷が鳴りだした。窓ガラスを雨が横に飛び、機体が激しく揺さぶられる。数十メートルもストンと落ちたかと思うと、今度は機体が激しくローリングを始めた。その度に乗客から悲鳴ともため息ともつかぬ声が漏れる。左隣のインド系のおばあさんは、いかにも苦しそうにディスポーザル・バッグを取りだして口にあてた。30分ほどで、天侯不良のためカトマンズへ戻るとの機長のメッセージが、ネパール語と英語で伝えられた。ほとんどの乗客が、機体が180度方向転換したことに気づかなかったようである。

飛行から戻った時のカトマンズの天気は穏やかだったが、じきに大つぶの雨が降りはじめた。どしゃ降りに雷鳴が響く。雷雲が東に流れてきたのである。雨が一段落した12時過ぎ、飛行機は再びポカラへ向かった。気流は安定せず、なお小型機の機体が激しく揺れる。とんだ遊覧飛行だ。一度高度を下げきれずに飛行場の上空を旋回した後、飛行機はなお機体を左右に揺さぶりながら、隣接する尾根をかすめるようにしてポカラ空港に着陸した。後日、ネパールの契約会社の社長に聞いたのだが、この日ポカラへ降りたのはわれわれの便のみだったそうである。彼は流暢な日本語で、3回着陸を試みたが成功せず、川に落っこちそうになって引き返した便もあったと述べた。

30分ほど待つと、空港に専用バスが到着した。ところどころ窓ガラスがないバスは、お世辞にもモダンとは言えない。バスはじきに昼食予定のペワPhewa湖畔に着くが、われわれを待っていたのは、湖に映るアンナプルナ-マナスル山系ではなく、横殴りの雨だった。気温も急に下がり、豊橋の登山用品店でセーター不要と言われたインナーダウンに、ゴアテックスの雨具とジャンパーを重ね着してもなお寒い。雷鳴が響く。船尾さんに今後の予定を聞くと、やめばいいんですが、と困り切ったような返事だった。ただ、今日がトレッキング一日目とすると、三日目には十分のゆとりが設けられており、不足の事態にあらかじめ対処すべく日程が組まれていたことは想像に難くない。バスがルムレへと高度をあげるにつれ、雨はあがり、やがて雲の切れ目から純白に輝くアンナプルナ山系がゆっくりと姿を現した。初めて見る8000m峰である。初日のトレッキングは、ルムレからチャンドラコットへの約2時間。村を過ぎ、ネパール特有の傾斜地に開墾された段々畑の間を登る。尾根を大きく回り込むと、そこには夕陽に照らされたアンナプルナサウスAnnapurna South(7219m)のマスとマチャプチャレMachhapuchharey(6993m)の錐形がそびえていた。

雨が大気を洗い流したのだろう、夜テントをでると満天の星。ネパール人のシェフがつくってくれた夕食を前にした話題は、この星空だった。問題は、小島先生の奥さんが述べた、南半球ではオリオン座が逆さまに見えるという説。これに対してさまざまな意見がだされた。同じ形の星座を反対側から見ることになるのだから、当然反対になるという説もあった。私は、学生時代天文学者志望だったが、数学的センスの欠如を自覚して断念した経緯もあり、さっぱりわからない。現実に対して無頓着な点だけは、余り変わっていないが。藤本さんは、名古屋の科学館の指導員を兼職しているのだが、やはりはっきりしないらしい。日本でオリオンを夕食後に見るのは冬だから、それが西の空にある時間帯なら逆さまに見えてもいいような気はするのだが。

ルムレ村近辺の段々畑
3月24日(金)

朝5時頃テントを出ると、アンナプルナサウスが薄明の中に浮かびあがっていた。昨夜の星は、もう姿を消している。高所で関節を冷やすのを避けるため、力イロをはってはいたものの、明け方には随分寒い思いをした。気温計は6度程度だったが、乾燥しているとはいえ昼間には30度近くまであがる。朝6時頃には、ネパール人スタッフが、テントの前に紅茶と洗面用のお湯をだしてくれた。物価が安い地域にいる限りは、大層な身分である。朝食後、チャンドラコットを出たのは7時40分頃だった。アンナプルナサウスとマチャプチャレを望みながらゆるやかに下ると、数時間でモディ・コーラModi Khola川の間近にでる。やや上流のつり橋で川を右岸に渡り、そこから急登する。コースタイムは6時間だが、この日の目的地、ガンドルンGhandrungに着いたのは4時50分、休憩時間を除いても8時間近く歩き続けたことになる。方角としてはアンナプルナ山系に近づいているのだが、モディ・コーラを渡ってからは3100mの無名峰から派生する尾根に妨げられ、展望はない。

アンナプルナとダウラギリの間を秘境ムスタンへ抜けるジョムソンJomson街道のメイン・ストリートからははずれるが、山の急斜面には麦や米の段々畑が切り拓かれ、点在するロッジが近隣の村民とトレッカーに宿や食事を提供する。ほとんどの家は、直方体の石材をセメントで積みあげて作られている。10戸ほどからなるキムチェKimcheの村は、ガンドルンへの急登の半ばにある。そのやや下にあるゲスト・ハウスの中庭で昼食を取ったのは、11時頃だった。午後3時頃には、弱い雨が降りだす。アンナプルナ一周8日間の山岳レースが開かれており、欧米系の人たちが上から走り降りて来るのには驚かされたが、そのコースを聞いてもっと驚いた。ベシサハールBesisaharから50kmほど北にあるソランパスThorangpassを抜け、ジョムソン街道を南に下ってチトレChitreの村へ入る。キムチェは、もうゴールに近い。学校帰りの小学生や生活物資や建材を運ぶろばの群れも行き交う。はるか下には、モディ・コーラ。

ガンドルンの村は、かなりの規模なのだが、標高2000mほどの丘の上にある。村に近づくと、アンナプルナサウスが忽然と姿を現した。薄暗い尾根の上にそびえる純白の山は、チャンドラコットから見たときよりも随分大きい。キャンプ・サイトに着く頃には、頂きは雲に覆われていたが、5時頃にはその雲も消える。アイガーのような鋭い山容のマチャプチャレからヒムチュリHimchuli、サウスに至る長大な山並みが、眼前にそびえている。マチャプチャレとヒムチュリの間には、4095mのアンナプルナ・べースキャンプのある内院へ暗い断崖が続く。マチャプチャレこそ、信仰上の理由から登山が許可されていないが、アンナプルナ山系に登るときは、ベースキャンプから上のキャンプに荷揚げを繰り返し、高所順応をしていく。今やヒマラヤの8000m峰は登り尽くされ、今夏に至っては、20パーティーがそれぞれ500万円程度の入山料を払ってエベレストにアタックするという。船尾ツアーリーダーは、今日みたいな日はアタック日よりです、と言った。ヒマラヤの山々は、やがて春の淡い夕陽につつまれていく。高度が高くなった分夜の冷え込みも厳しく、温度計を見ると0度ほどだった。

ガンドルンからのアンナプルナ・サウス
3月25日(土)

朝6時に起床、7時朝食、8時前には次の目的地、タダパニTadapaniへ向けて歩きはじめる。おかゆなどの和食とネパール料理の混ざった朝食を取る間も、アンナプルナが東からの鋭い朝日を浴びて白く輝いている。下のキャンプ・サイトにテントを張っているアメリカのグループは、われわれよりも随分ゆっくりしていて、出発する時間になってもきれいなテーブルクロスを敷いた食卓に食器が並んでいた。行程中テントを同室した針谷さんが、今日はちゃんとしたトイレがありますよ、と教えてくれた。ちゃんとしたトイレとは、ドアに鍵がかけられ、使用後に流す水が置いてあるものである。地面に穴を掘っただけのトイレ・テントよりも、よほど安心できる。

ここら辺で出会うトレッカーは、大方欧米人か日本人だが、ひとつ違うのはそれぞれのグループの年齢構成である。これは今月号の雑誌「山と渓谷」にも書かれていたが、日本の登山者は、中高年が多い印象を受ける。若い人たちが大自然の与える環境に耐え、チャレンジする心を忘れ、また働き盛りの人たちが明日の活力を養う時間も得られないとしたら、これほど残念なことはない。かつてアメリカの経済学者W.W.ロストーは、物質的充足を得た人々の関心は、今や精神的豊かさの希求へ向かうものと考えた。産業社会は、「消費の彼方」へ移って行く、と。1960年代のことである。2000年、大量生産されたモノが市場に溢れ、消費が減り、仕事が減り、失業率は4%を越えた。多くの人々が、なお仕事だけに縛り付けられているとしたら、淋しいことではある。経済成長は、そこで生活する人々が豊かな暮らしを享受するための、手段に過ぎないのだから。ガンドルンからのルートは、ゆるやかな登りで初まるが、やがて小川沿いの急登、そして赤いしゃくなげの大木が林立する森林へと進む。アンナプルナの眺望は、一時尾根に遮られる。開墾され、或いは植生から展望のきく小道が続いたためか、日本の山に似た印象を受けるが、深紅の花をつけたしゃくなげのジャングルは、日本にはない。ちなみに、しゃくなげは、ネパールの国花でもある。木立ちの間では、野性のサルの家族が遊んでいる。尾根を越すと、ポカラでは望むすべもなかったアンナプルナII峰とIV峰が初めて姿を現した。至近距離にあるサウスやマチャチュプレよりはるかに小さく見えるが、標高はそれぞれ7937m、7525mと高い。アンナプルナは、高度順にI峰からIV峰、サウス(南峰)まであるが、その中で8000mを超えるのはI峰だけである。

昨日のルートがきつかった分、今日はコース中最も楽な行程で、2時過ぎには目的地のタダパニに着いてしまった。ここの標高は、2700mほどだから、アンナプルナはさらに5000mほど高いことになる。一通り写真を撮り終えると、早速みやげ物屋をひやかしに行った。観光客が来る場所には、必ずと言っていいほど、工芸品やショールを売るみやげ物屋が露店を広げている。中には、トレッカーのグループに先回りするものもある。多くが中国政府の統治を逃れてきたチベット難民の店だが、英語以外にも、「見るだけ」、「友達プライス」など風変わりな日本語を片言話す。見るだけで済んだためしはないのだが、ビジネスには必要にして十分。ヒマラヤ登山が大衆化したこともあるのだろう、タダパニには、こうした露店が5、6軒あった。マンダラをモチーフにした精巧な金属細工や、藤本先生が欲しがる民族楽器が並べられている。先生は、バクタプール以来、毎回何か「音がするもの」を買われていたが、この時は笛を探していらっしゃった。

この手のガラクタに目のない私には、皆宝物、少なくとも少額の株券のようには見える。まず、銀のネックレス。友達プライスの400ルピーが350に、ついに300になったところで手を打ったが、一体銀製品が600円で買えるのだろうか。チャーミングな女の子が、変色するような贋物なら今度
来たときに交換してあげる、と言ったのを真に受けてしまったのだが。今回のトレッキングは類似したコースを歩く大阪のグループと度々一緒になったのだが、そこの小学生が、私がさんざん値切るのを見て「次は何にするの?」と聞いた。次に手にしたのは、魔法の小箱。この箱に描かれた不思議な色模様を見つめていると、いつしか自分の夢がかなう空想の世界に引き込まれていく。もっとも、日本の小学生にとっては、ネパールの現実もさして魔法の世界とかわりはしなかったかも知れないが。夕食後にバースデー・ケーキが出されたのには、驚いた。申請書に生年月日を記載するため、今日が飯田さんの誕生日であることはすぐわかる。船尾さんが気をきかせたのだろう、シェルパを交えてハッピー・バースデーを歌うと、飯田さんも感涙されていた。その後、現実的な論争になったのは、藤本先生が、西洋人は3拍子の歌に決して2拍子の拍手をつけないという東西二元論を提示されたからである。飯田さんは、合いの手は拍子とは違うとおっしゃったが、拍子が何であるかも知らない私に答えられるはずもない。

タダパニの露店
3月26日(日)

今日は、タダパニからデウラリDeuraliで昼食を取った後、ゴラパニGhorepaniへ抜ける。最終目的地であるプーン・ヒルPoon Hillまでは、そこから一時間もかからない。アップ・ダウンが多く、ロッジの地図では、400m降りて800m登り、さらに200m下ることになっている。タダパニから、尾根脇の渓谷への急下降がすぐに始まる。ここら辺にも、しゃくなげの大木がうっそうと繁っている。谷からは急登。登り切ったところにあるロッジの前で一息いれた。われわれの荷物もそうだが、ポータ−たちは手持ちのかわりに額あてのついたがんじょうな竹籠に物資を入れ、それを頭にさげて運ぶ。布製の額あては、みやげもの屋でも売られていたが、ロッジ前の日溜まりでは、老人が竹で一本一本編んでいた。大阪グループのメンバーが、できたてのものを譲ってくれるよう交渉している。やがて、小川沿いにデウラリへの登りが始まる。アイゼンが必要なほどではないものの、雪量が多くなる。雪の間には、かわいらしいピンクのさくら草が顔をだしている。見上げると、しゃくなげの大木。日本の3000mクラスの山に比べると風も弱く、随分穏やかだが、空気が薄くなるのがわかる。さすがに紫外線が強く、暑いときはTシャツで歩いていた私は、首筋を真っ赤にはらしてしまった。小島さんや針谷さんにUVカットのクリームを、飯田さんに紫色のバンダナを頂いた。デウラリで昼食を取ったのは、10時半頃だろうか。シェフが、いつものネパール料理を準備してくれた。この日のメニューは、ピーマンや玉ねぎのカレー炒め、マカロニサラダ、シーチキン、中国風の淡白な饅頭とおにぎりだった。ポーター達が、山盛りのカレーライスなのに比べると、随分贅沢ではある。インドでは、しばしば長粒種の米をゆでるが、ここでは圧力なべで炊くこともある。肉や魚は中々手に入らず、乳製品もさして多くない。

タダパニから距離にして3km程度に過ぎないが、これでアンナプルナサウスから南へ伸びる長大な尾根を越えることになり、これまでとは随分違った眺望が得られる。サウスの左側にはニルギリの尖峰が姿を現わし、さらにその左側にはダウラギリ連山がどっしりと横たわる。飯田さんは展望の良いところで休息したいのか、先頭を行くシェルパの青年にしきりと、あとどのくらい、と聞く。彼の返事が、いつまで経っても"five minutes"なので、しまいには怒りだしてしまった。それ以後、返事は"ten minutes"になった。実際、最高の展望台はゴラパニ村の直上にあった。360度の見晴らしが楽しめる。これまで歩いてきたルートが、アンナプルナサウスの方へ続き、グランド・バリエールGrande Barriereのピーク、ニルギリ、ダウラギリとヒマラヤの山々が連なる。西には、明日登るプーン・ヒル。雲は、上昇気流のあるサウス周辺から湧き出すようだが、春とは思えない強い陽射しに、ヒマラヤひだが影を落とす。一同、そこにしばしたたずむ。溝口さんにもらった「豊橋創造大学さんぽ会」の旗を記念写真に収めるのは、チャンドラコットからガンドルンへの途上、ガンドルンのキャンプ・サイトに続いて3回目である。

ゴラパニへの下りは、一時間ほど。われわれが着く頃には、ポーター達がすでにテントを設営してくれていた。ここには、ロッジやレストランに混じるように、学校や本屋、小さな警察署もある。多くの建物が青いペンキで塗られており、すぐそれとわかる。私は、あるレストランのテラスにのんびりできる場所を見つけ、そこで日記をつけた。やがて大阪の小学生が遊びに来たので、一緒に村を回り、後日油絵にするつもりでスケッチを描いた。6時半頃、アンナプルナがタ陽に染まった。それは、ほんの一瞬のでき事で、西壁が淡いオレンジ色に染まったかと思う間もなく、秋の夕暮れのような濃い朱色へ変り、次の瞬間には夜のとばりにつつまれていた。飯田さんは、早くからカメラの三脚を据えて準備していたが、私はと言えばレンズ交換に手間取っている間に、気まぐれな大自然がみせる華麗なショーを逃してしまったのである。

タ食後、シェルパやシェフを交えてダンスに興ずる。彼らのお気に入りの曲は、レシャム・フィリリResham Fiririという流行歌だが、それ以外の曲も音楽に合わせて踊れるようになっているのは、すばらしいと思う。学生時代、スペイン人のパーティーで踊った時も、一気飲みとカラオケに終始するわれわれの飲み会が、妙につまらないものに感じられたものだ。私のゼミの学生など、それすらもやらない。もっとも、われわれのグループでは酒飲みが少数派で、テント暮らしが始まってからはもっぱら紅茶とコーヒー。ほとんど毎晩宴会の大阪グループとは随分違う。紅茶を飲んでディスコというのも、妙に健康的だ。それが終わると、小島先生がロープを使った手品を披露した。以前、熊野古道の安宿で教えてくださったのだが、何度見ても不思議ではある。パーティーは、場所を屋外に移して夜も続いた。

ゴラパニ付近にて(左端が著者)
3月27日(月)

朝4時に起き、4時30分には各自トーチを手に、標高3200m弱のプーン・ヒルへ向かう。ゴラパニの村からジグザグの急登だが、道はプーン・ヒルで日の出を迎えようとするトレッカーで混雑している。英語、フランス語、ドイツ語、中国語など、すれ違う人々の言葉はさまざま。プーン・ヒルに着く頃には、夜空は白みかけていた。マチャプチャレからダウラギリに至る山々が、眼前に広がる。アンナプルナI峰が、初めてその繊細な山容を現した。20分ほどで、はるかかなたのヒマルチュリHimalchuliに陽が登る。淡い光が空を明るい山吹色に染めたかと思うと、数分でネパールの春の光が、山々を照らしていく。漆黒と純白、黄金色の光のハーモニー。印象派の画家がどんなに工夫しても、これほど美しくは描けないだろう。乾燥した冷たい空気に、シャッターを切る音がひびく。頭上を、ジョムソンの街へ飛ぶセスナ機や遊覧飛行のヘリが通り過ぎる。ポットを担ぎ上げて、トレッカー相手にコーヒーを売る、商魂たくましいネパール人がいるのには驚かされた。
ゴラパニに戻って朝食を取ると、いよいよ今回のトレッキングも終盤を迎え、長い下りが始まる。皆、この地が名残惜しそうだ。それほど、天候や仲間に恵まれていた。大阪のグループは、温泉のあるタトパニTatopaniへ下るので、お母さんが小学生を連れて挨拶に来てくださった。名前も伺わなかったのだが。われわれはゴラパニを朝8時に出発、途中11時頃にバンターティBanthatiで昼食を取り、ヒレHileの村へジョムソン街道を下る。途中、ロバの隊商が幾度となく通り過ぎる。中には、30頭余りが連なる大規模なものもある。その度に、われわれは道を譲って休息する。ウレリUlleriの村を過ぎると、はるか下にチャンドラコットへの道が姿を現す。標高差で1000mほどあるだろうか。北田さんが足を痛めるが、サーダがフォローする。飯田さんは、12月にはここで骨折した人がいたと言った。ヒレの小さな村に着いたのは、5時頃だった。この夜は、ちょうど焼酎のような味がするネパールの地酒を片手に、歌いそして踊った。小島先生が、雪山賛歌などの歌集のコピーを持参されていた。

プーンヒルからのダウラギリ
3月28日(火)

トレッキング最終日の今日は通常のスケジュールに戻り、6時に起床する。すぐにボーイが、モーニング・ティーと洗面用のお湯を持ってくる。昨日1000mも下っているので、朝の冷え込みも弱いが、5分ほど経ってテントから出るとお湯はすでに冷めていた。キャンプ・サイトの隣にあるロッジの犬と遊んでいたら、どうもあちこちが痒い。犬を洗うこともないのだろう、ノミをプレゼントされたようだ。私の父は、以前中国の奥地でマラリアをもらってきたし、針谷さんが皮膚に食い込むのもいるんですよと脅かすものだから、せっせと薬を塗る。

ヒレから車道のあるナヤプルNyapulの村までは、比較的平坦な道を2時間ほど歩く。段々畑を見上げる川沿いのルートには、数十軒単位の小さな村落が点在する。山道を学校へ行く学生、スウィートとポールペンをねだる子供、幼児に乳を含ませる母親、陽だまりでくつろぐ老人。静かな農村に、生まれたばかりのひよこの黄色い嗚き声が響く。やぎやバッファローが家畜小屋から顔をのぞかせる。中にはこぎれいな家屋もあって、それらはオープンスペースや緑に欠ける日本の都市部の住宅より、よほど恵まれている。ナヤプルに近づくと、マチャプチャレが最後の姿を現した。白い峰が、モンスーン前のヒマラヤに映えている。藤本先生が、最後の念願であるロバの鈴を手に入れられた。実際に使っているものを、シェルパに交渉してもらって、200ルピーほどで譲り受けたのである。豊橋創造大学の幼児教育科の授業でも、ネパールの鈴が登場するのだろうか。

晴天のポカラからカトマンズ空港までは、約30分のスムースなフライトだった。ホテルに戻り、一週間ぶりのお風呂で汗を流した後、3時半には過ぎ去る時間を惜しむように、カトマンズ市内の探訪に出発した。これだけ歩いた後なのに、皆元気一杯である。私は、人ごみを歩くのは新宿で鍛えているから何の問題もないのだが、ここでは人だけでなく、三輪タクシー、オートバイや牛が思わぬ方向から現れる。折りからの雨で、街用におろしたズボンもすぐに泥だらけになったのには閉口した。カトマンズの路地裏は、入り組んだ通りの両側に石造の建物がそびえている。下水道などの社会資本が十分に整備されていないためだろうか、臭気もある。ちょうど一昔前のパリのボーブルやサン・ジェルマンあたりを歩いているような錯覚を覚えた。学生時代、パリの街を離れるのがつらくて絵筆を手にしたことがあったが、カトマンズに同じような感情を抱くとは思わなかった。雑然としたたたずまいにヒンドゥー教寺院が点在するこの街は、それほど魅力的である。

翌30日、6時頃に目を覚すと、カトマンズの赤レンガの街にニワトリやスズメの鳴き声が響いていた。9時45分にホテルをチェック・アウト、カトマンズを後にする。ヒマラヤの8000m峰、赤いしゃくなげの大木、カトマンズの街やヒンドゥー教文化、ゆっくりと循環する時間。それら全てが新しい体験だった。われわれの日常生活と一致しない世界。もしかすると、そうしたところにも、時間と仕事に追われる生活を改めて問い直す尺度をみいだしうるのかも知れない。
(東海日日新聞連載分 2000.5.1-)

カトマンズの街角



リサーチ秘話ー1999年調査旅行を振り返る
中野 聡

授業料や税金を使って仕事をする以上、われわれはそれなりのものをプロデュースしなければならない。とは思うものの、実際のリサーチには成功もあれば失敗もある。十分にデータを集められなかった1999年調査旅行は、どちらかと言うと失敗例。もっとも、北杜夫もどこかに書いていたが、普通はサクセスストーリーより失敗談の方がおもしろいし、役に立つ。私は、学生時代に歴史学を専攻したものの、関心はむしろ現代社会にあり、「歴史」という言葉は「過去」ではなく「時の経過」を示すものと勝手に解釈していた。歴史学における実証研究は、未刊行の一次資料の収集と読破から始まると教えられたが、豊橋に職を得てからは、EU社会政策へとリサーチテーマを軌道修正。結果として、実際の資料収集作業は、アンケート用紙を送ったり、インタビューをしたりと、社会学者やジャーナリストのやることと大差なくなってしまった。10年の経験の後、「全ての歴史は現代の歴史」というE. H.カーの言葉が、ひどく回りくどく感じられるようになったのは、自分がより自由になったためだろうか。

これは余談だが、近年、大学でも効率性を高めるための試みがいろいろ立案されている。これらは現場では、ほぼ議論抜きで、期限に追われるように全項目セットで機械的に適用されている。大学基準に関する主張には、実に評価すべき点がある。作成者の良識と苦労が偲ばれる。しかしその方法は、手間のかかる全てのプロセス−自由な精神やディスカッション、自治、状況やデータから組み上げる論理的な思考−を見事にバイパスしている。トップダウンの手法ばかりが現実を動かすのを見るにつけ、一体この社会で進む「改革」は、どっちの方向を向き、何を求めているのだろうと思う。
9月5日(Sun)

そういう訳で、1999年9月5日、名古屋からアムステルダムへ発ったのは、欧州連合EUが作った多国籍企業の従業員を対象とする情報・協議制度を実証的に検証しようというものだった。元々の制度のスピリットは、大企業の所有者と従業員の利害をディスカッションを通して調整することにある(こちらは、フロントページ掲載の論文を参照)。未だに学生時代の貧乏性が抜けないので、海外旅行は格安と決めている。年間研究費40万、正規運賃20万、格安10万(数字は全てうろ覚え)としたら、誰が正規運賃払います?どうせエコノミーだし。昨年は関空が遠くて懲りたので、今回は名古屋からのフライトの多いオランダ航空KLM。空港周辺に1日\1000程度で車を預かってくれる駐車場があるのも、荷物があるときは重宝する。新空港ではどうなるのだろう?スムースに荷物検査と出国管理を通り抜け(ヒマラヤ紀行でも言及)、しばしなんにもない土産物屋でありあわせのお土産を補強した後、870便に搭乗。やがて飛行機の座席に座り、日本を後に・・・するはずだったが、ちっとも動かない。30分ほどすると、やがてオートで第4エンジンが点火しないので、手動に切りかえるとの機長アナウンスがあった。心細いものを感じたが、地上にいる飛行機が墜落することもないのでがまんした。それでも動く気配をみせない。やがて、名古屋にない部品の交換が必要で、成田か関空から取り寄せるまで待合室にいてくれとの連絡。しばらく、なんにもないロビーに戻ってうろうろしていた。結局、名古屋空港を離陸したのは、定刻に遅れること4時間の15:00頃だった。

アムステルダムのスキポール空港到着前に、機内放送で「フランクフルトへトランジットの乗客17名は、到着後バスで現地へ、それ以外の乗客は翌朝別便で目的地へ」との連絡があった。もともとフランクフルト便は、アムステルダム18:35発の予定で、20:00過ぎに着いたのでは代わりの飛行機を用意できないからである。これには弱ってしまった。仮に22:00にバスがでても、フランクフルトへ着くのは明け方の3:00頃になる。行き当たりばったり主義の私は、ホテルも予約していなかったし、さすがに寄る年波で過激な行動は避ける傾向にある。学生時代、ロンドンのビクトリアに真夜中に着き、苦労の末、収容所のようなホテルに泊まった悪夢が蘇る。述べ4名のフライトアテンダントに、アムステルダムに泊まって翌朝フランクフルトへ行きたいと直訴するが、「パーサーの決定」や「地上職員と交渉して欲しい」という回答は親切な方で、全く音沙汰なしのもいた。この日のフランクフルトへのトランジットは、2組の日本人団体旅行客以外は、私と北海道に遊びに来ていたドイツ人学生のトビアス・ミュラー氏のみだった。スキポール空港では、地上職員が「バスがないので、アムステルダムに泊まり、翌朝バスでフランクフルトへ向かう」と説明してくれた。私以上に行き当たりばったりだと思った。本当は、5時間もかかるバスより飛行機の方が良いのですけど。飛行場の近くのホテルは広くて快適。若干遅れても、ま、いいかという気分になった。

アウトバーンで立ち往生するバス
9月6日(Mon)

翌朝7:00に、KLMチャーターの大型、小型のバスに分乗してフランクフルトへ。バスはやがてアウトバーンに入るが、平日の朝とあって、6車線の高速も車でびっしり。つまらないので、日本人何人かでトビアスを相手に、「さすがにアウトバーンは速い!」とか言って遊んでいた。途中、サービスエリアで停車。バーがあるのでお昼にビールでも飲もうかと思ったら、すぐに出ると言う。代わりにまずそうなサンドイッチとりんごを渡されてがっかりした。もっとがっかりしたことには、肝心の大型バスがフランクフルトの手前25kmほどで故障してしまったのである。黒人とオランダ人の運転手が、ベンツの後部のボンネットをあけて燃料フィルターをいじっていたが、少し走っただけでまた止まってしまった。みんなバスから降りて、ああでもないこうでもないと言っている。気がきでなかったのは、団体旅行の添乗員。一グループは、ロマンチック街道からスイス1週間の特急旅行だった。結局、彼女らはフランクフルトに待機していたそれぞれのバスを呼び寄せた。トビアスと私は、ついでにフランクフルトまで送ってくれるように頼んだのだが、「急いでいるからだめ」と素っ気無い返事。同朋も冷たい。車内で知り合った検察局の人が、バスから手を振ってくれた。

パーキングエリアに取り残されたわれわれは、なおバスを修理している運転手2人にフランクフルトまで連れていってくれるように頼んだ。当然、動く小型バスで送ってくれると思っていたら、修理で忙しくてそれどころではないと言う。じゃあ、直ったら送ってくれと言うと、人柄の悪そうなオランダ人運転手は無反応。黒人の運転手はより親切で、「通常ホテルとアムステルダム市内を結ぶバスを、チェックなしにこんな長距離輸送に使うのは無理」と主張した後、「ヒッチハイクでもしたら?」とアドバイスしてくれた。私は、5年間習ったにもかかわらず、大学院のドイツ語試験に落ちてしまった経験がある。フランス語と間違えて履修してしまったのだ。コミュニケーション能力無視の語学教育にも、責任の一端はあるのだが。で、トビアスが何人かにあたってくれた。ところが、フランクフルトへ行く車がない。歩いて行く訳にもいかないと思案し、黒人運転手相手に粘り強く交渉。結局、大型バスの修理完了後、75マルクでフランクフルト駅まで送ることで妥協が成立した。ところがちょうどその時、たまたまパーキングエリアにタクシーが現れたので運転手に聞くと、駅まで40マルクとの返事にギャフンとなった。現地到着は、予定のほぼ1日遅れの15:00頃だった。こうして、短い旅行の長い初日は、ようやく終わりを迎えたのである。

スヘフェニンゲンの海水浴場とピア
9月7日(Tues)-19日(Sun)

リサーチ秘話は、これでお終い。肝心のリサーチの話しが何もないですって?これは趣味のページなんですが・・・。幸い、初日を予備日にしていたため、マンハイムの米国系多国籍企業でのミーティングに支障はなかった。それ以降、真夏のぶり返したロッテルダムからアムステルダム、デン・ハーグ、ロンドン、ケンブリッジ、スウェーデンのヨーテボリと回ったが、電車も飛行機も、不思議なほどスムースだった。アムステルダムで昔の友人に会い、スヘフェニンニンゲンの海水浴場で一息入れた。高校生の頃読んだ『ドクトルマンボウ』には、スケベニンゲンと記載されていたようだが、思い入れが強すぎる気がする。確かにトップレスの女性は多いのだが、9月の北海は冷たくて、足を浸すのが精一杯だった。帰ってきてからセミナーの学生に海水浴場の写真を見せたものの、余り反応がない。どうも最近の学生の考えることがわからない。ケンブリッジでは、仕事の後、留学中の後輩に会った。久々にビターを飲んでプールをした。なんせ年季が違うので私の圧勝と思いきや、最後にキューボールを落として自滅した。今回の調査旅行で最も印象に残ったのは、美しい北欧の都市、イェーテボリでインタビューしたアパレル企業の女性経営者だった。多忙な中、企業にとっては税金にしかならないようなテーマの調査に応じてくれた彼女は、非常に上品で、随分時間を取って説明してくださった。高層ビルの外では、北海が初秋の日差しに輝いていた。

ヨーテボリ市街
帰国後、私はKLMの東京支社に「ヨーロッパへのフライトにKLMを利用し、現地マネージメントの不適切な対応により、これこれしかじかの不都合が生じたので、航空運賃とは別途に要した各20マルクをトビアスと私に返済して欲しい」との抗議の手紙を書いた。支社からは、オランダ本社に連絡するとの詫び状と20マルク相当のテレフォンカードが届いた。しばらくして、ドイツからメールが入った。トビアスからで、何とKLM担当者がシャンパンを送ってきたという。私も、そっちの方が良かった。マニュアル通りの発想ほど、退屈なものはない。


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