ライン

講義ノート&ハンドアウト(g)

A. ギャンブル「民主主義の限界」
抄訳*


20世紀の政治的言説の形成に連なる主な対立点は、市場と民主主義を基軸とするものだった。左派が、その機能に対し政治的制限を課すことによって市場を統治しようとする立場として連想され、右派は市場が政府行為の範囲を限定することを主張して、民主主義のスコープを限定しようとしてきた。この論争は、政治的、感情的な参照点、知的オリエンテーションを形づくってきた。時代による収斂もみせ、誰もが民主主義と市場に信頼を置いている。右派は民主主義への恐怖を払拭し、少なくとも政府を組織する不適切な方法としては認知するようになった。左派は、市場を経済を調整し、資源配分を行うために必要な方法と考えるようになった。市場と民主主義は、現代社会経済システムの2つの主な制度構造をなしている。

右派と左派が異なるのは、どちらが支配的であるべきかという点にあった。この論争の核心には、人民主権というドクトリンの解釈がある。民主主義には、限界があるのか、またあるべきなのか。全ての他の社会組織の原則は、人々が行う決定の場合には、書き換えられるべきなのか。20世紀の最初の数10年は、民主主義優位の主張が力を増したが、最後の30年には集産主義的概念(collectivist ideas)に対する顕著な反動と、経済自由主義の強力な復活を経験した。社会民主主義――民主主義によって統治される市場――の概念は、市場民主主義の別のバージョン――市場によって制限される民主主義――に取って代わられた。一つの方法は、市場と民主主義の争いが永遠に続くとみなすことである。歴史的にそうであったと言うことは、それが必然的にそうだということではないのだが。

<市場の政治的帰結> 市場に対する民主主義の優位を主張する主要議論のひとつに、K.ポランニー(Karl Polanyi)の「大転換」がある。そこでは、市場経済は高度に人工的な政治的創造物であり、それが確立されるや社会、政治的制度を伴う自己規制的システムとなったものと仮定されている。その人間福祉への帰結の大きさ(貧困、失業、浪費)は政治運動を生みだし、規制と管理が導入された。他方で、新古典派経済学では、これらは市場の失敗であり、市場が適切に機能していればおこらなかったものである。ポランニーの主張によれば、市場の失敗は実際の市場システムの不可分な特徴でもある。市場交換に関係するエージェントのパワーと資源の不平等性は、政治的関与(健康、教育、老齢、疾病、事故、失業、再分配的財政体制…)によってのみ是正しうる。

ハイエクも、被雇用者が集産的な安全プログラムを支持するとみなしていた点で、ポランニーと一致していることになる。ハイエクの悲観論とポランニーの楽観論の差は、市場を理解した方法に有る。ハイエクにとって、市場は、異なるスターティングポイントと資質にもかかわらず、全ての行為者(agents)が利益を享受しうる中立的な交換メカニズムだったが、ポランニーにとってそれは、異なる行為者間の権力関係によって始めから歪められたものだった。ポランニーにとっての市場は、他の利害に対して特定利害を体系的に優遇する政治的創造物だったのである。

<労働党の政治経済学&民主主義の経済的帰結> 労働党のプロジェクトは、混合経済とも呼ばれたが、市場の欠陥を是正するために公的領域の拡大を行ったので、C.リンドブロム(Charles Lindblom)のように「統治された市場経済」とみなすのが正確かも知れない。主な領域は、完全雇用と経済運営、福祉と社会保証、経済成長と都市計画、再分配的税制だった。これらの全領域において、国家は私的利害以上に大きな公的利益を主張することによって、市場経済への介入の合理性を示した。…1970-80年代に復活した経済的自由主義には、新しい点もあった。それは民主主義を受容したが、常に条件つきだった。彼らは、市場をより重視した。経済的自由主義者は、政府の解決は常に市場の解決に劣る可能性があるとした。また、政府は効率的に計画し、市場に介入するだけの知識をもたないため、民主的に委任されているという主張にもかかわらず、政策的誤りに帰結する。この批判は、拡張した国家への幻滅を背景に強力なものになった。ブキャナンとバージニア学派(Virginia school)の主張は、憲法により政府が市場の秩序を損なう政策を遂行することを禁止する点にある。

<空洞化する民主主義> 世界中でかつてないほど政治システムとして確立した民主主義も、市場に従属し、侵食されつつある。公的利益と公的空間の概念を維持することが徐々に難しくなりつつある。…経済自由主義の流れへのひとつの対応は、その興隆が短命に終わり、新たな集産主義の波が続くと主張するものである。…しかし、そうしたレジームが、過去の過ちを繰り返すのならば有益ではない。民主主義が刷新されるとしたら、その名の下に行動する人々は市場を代替するのではなく活用することを学ばなければならないだろう。市場に問題があるとしたら、それは特定の市場で活動する組織の統治形態にある。適切な統治システムをデザインする上での問題のひとつは、知識にある。

20世紀の民主主義は、次第に集権化した結果、経済的自由付議の批判に対して極めて脆弱なものになった。しかし可能性は、はるかに分散化した民主主義、つまり諸個人間の相互作用を可能にし、彼らが有する散逸し分断化された知識を集積しうるような制度的秩序に存する。こうした民主主義と市場は、アソシアティブ民主主義の諸形態が、市場が効果的に機能するために不可欠な個人間の信頼関係のような条件の多くを確立する必要があるという意味で、相互浸透の関係にある。市場を頻繁に規定する不平等な権力と所有関係は、市場を抑圧することでなく、現在大半の市民を疎外する所有権改革をもたらすような新たな統治形態を示すことによって、是正しうるのかもしれない。
* A. ギャンブルは、論稿執筆当時、イギリスのシェフィールド大学政治学教授。Andrew Gamble (1996) 'The Limits of Democracy'in Paul Hirst and Sunil Khilnani eds., Reinventing Democracy, Oxford: Blackwellを参照。

トップ アイコン
トップ

ライン