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講義ノート&ハンドアウト(d)

ドロール、社会プロトコルを語る
筆者(中野 聡)によるJ. ドロールのインタビュー*

ドロール氏の略歴は、次のようなものである。1925年、フランス銀行従業員の子息としてパリに生まれ、青年期には進歩主義的カトリック運動に関与した。高校卒業後にフランス銀行に就職、持ち前の勤勉さで国際金融の知識を吸収すると共に、キリスト教系労働組合に参加し、そのリサーチ部門を統括した。1969年にド-ゴール派首相J.シャバン-ドゥルマ(Jacques Chaban-Delmas)の社会問題アドバイザーとなる。資源配分や経済的ダイナミズムをもたらす市場機能の有用性を認識する一方で、それが実現し得ない平等性や社会的公正を、異なる集団間、とりわけ労使間の対話によって達成しようとする独自のコーポラティズム論は、この頃の経験に由来するとされる。1979年には、フランス社会党系の欧州議会(EP)議員に選出され、その金融問題委員会を率いた。1981年、ミッテラン大統領の就任と共に財務相となり、翌年には政権の現実主義的方向への政策転換を支える。

1985年1月に発足したドロール-コミッションは、停滞していた欧州統合を再開し、急ピッチで展開させた。そこには、単一市場白書(1985年)、単一欧州議定書(Single European Act)(1987年発効)、'パケ-ドロールPaquet Delors(Delors I)'と呼ばれるEC財政改革(中期予算設定、共通農業政策と構造基金改革)(1987年)、ドロール委員会報告における経済通貨同盟(Economic and Monetary Union, EMU)形成プロセスの規定、域内市場の基本要素として提示されたEC社会憲章(Charter of Fundamental Social Rights of Workers)の採択(1989年)、(以下で直接言及する)社会的側面と欧州社会対話の形成、そしてEMUと政治同盟双方において難航を極めたマーストリヒト条約の採択が含まれる。

マーストリヒト会議での最後の難関は、イギリス保守政権がいかなる変更をも拒否した社会政策条項にあったが、ドロールは社会プロトコルを基本条約本体から分離、オプトアウト(離脱)したイギリスを除く11ヵ国での採択にこぎ着けた。また、景気後退と失業増大、そしてヨーロッパの危機の中で作成された1993年白書、「雇用、成長と競争力(Employment, Growth and Competitiveness)」は、2000年代以降のEU経済社会戦略――これらは、経済目標と社会的包括の達成を共に掲げる点で、単なる成長戦略とは一線を画している――となるリスボン戦略やヨーロッパ2020の方向性に、多大な影響を与えたように思われる。

インタビューでは、社会プロトコル、およびその中核を構成した欧州レベルの民間・公共セクターの経済団体と労働組合が策定した'社会的パートナーの合意'の形成過程に関して伺った。以下では、筆者の質問とドロール氏の回答を、趣旨の理解を容易にするよう、必要最小限の編集を加えて記載した。ヒアリングは、社会プロトコルの形成過程に関する実証研究の一環をなしていたため、特定の事項に関する質問に集中し、また、やや分かりにくい点もあるかと思うが、経済・通貨統合と政治統合を統括したドロール氏の社会思想を窺い知ることができる。

- ヴァル-デュシェス対話は、クロスセクトラル(欧州経済)レベルで始められました。
私の政治的目標は、単一市場の全ての側面に社会的パートナーを完全に関与させることでした。1992年という目標にです。各国政府のみならず、労働組織と経営団体にも懐疑的な雰囲気があり、当初は困難なものでした。これが、コミッション(当時のEC委員会)委員長への正式な就任の前に、最初の会合を提案した理由です。私の考えは、欧州のプロジェクトに社会的パートナーを完全に統合することでした。

- この目的のためには、セクター組織(間の協議)は十分ではなかったのですね?
その質問は理解できません。出発点は私の優先事項にあったのですが、それは私が金融問題ではなく、常に社会問題の専門家だったからです。欧州建設は停滞しており、経済団体は私に新たなダイナミズムを促す意思表示を求めました。ダイナミズムとは、1992年までに単一市場を達成する提案です。経済団体は歓迎していましたが、私の個人的見解では、労働組合組織を関与させない労使関係は不可能でした。

全般的な懐疑を脇に置くにしても、大きな困難は団体内のコンセンサスの欠如にありました。経済団体にもコンセンサスがありませんでした。多くの団体は、生産に関する幾多の事柄に関心を示していたのですが。労働組合組織に関しては、欧州には4つの労使関係制度があることを忘れてはなりません。北欧モデル、ドイツ-モデル、イギリス-モデル、コーポラティズム型フランス-モデル、そして南欧にはモデルがありません。私の個人的な努力は、多くの団体の責任者と晩餐を共にすることでした。晩餐会は好きではないのですが。共同戦線を張り、共通の立場に立つことの必要性を説得することでした。結局、6ヵ月間のディナーが必要だったのですが。労働組合組織が、欧州建設の再開に関与することの政治的重要性を理解したときに、初めて進めることが可能になったのです。しかしそれは、農業とか新技術の(セクター)問題から始めることではなく、グローバルに展開することでした。単一市場の実現に向けて全てを議論するような、ある種の恒常的関係を構築することが可能か、という点にあります。

- ドゥジャンブ氏は、UNICE(欧州産業連盟)とETUC(欧州労働組合連盟)が他のセクトラルレベルの団体よりも良く組織されていたと説明されました。

しかし、それは副次的な問題で、本質的な指摘ではありません。組織を作り上げる、錬金術以上のものではありません。共同体全般のレベルで議論をするとき、コーポラティズムの関心の対象となるのはセクター別の問題に限りません。私、ジャック-ドロールの提案を受け入れる必要性があるのか、ということです。彼らは慎重ですので。これが、私の計画を説明するために何度も人々を動かした理由です。

- ハイレベルの労組と使用者団体が、1992年という目的のためにより適切だったのですね。
パラメーターは2つあります。最初のものは、私とハイレベル団体の間の討議でした。単一市場を達成することが本当に可能なのだろうか、また、単一市場実現の後には何が生じるのか、といった全般的討議です。労働組合に関しては、この期間の間、ドゥジャンブ氏の一般的指導の下、支援したり、説明したりしました。これが最初のパラメーター。2番目のパラメーターは、経営者団体を説得することです。これは、一層困難でした。経済団体に言ったのですが、こうした対応を続けるなら、私は労組の味方をしますよ、と。経済団体は嘆息していましたが、私のスピーチに満足し、省察の後に(協議を)始めることを受諾しました。

特定の問題、例えば、生産過程における新技術の帰結のような問題から議論を始めました。しかし、徐々に体系化へと進み、後にマーストリヒト条約の社会条項に帰結しました。社会条項は協約交渉の可能性を示し、それはコミッションによって受け入れられました。これが最後の段階です。しかしこの段階に辿り着くには、1984年から1992年にかけて、幾多の討議や困難がありました。

社会条項は、マーストリヒトでの夜、議論の対象になりました。それは、多くの代表によって拒否されたのですが。イギリス、オランダ、ポルトガル…。この時の最も重要なアクターは(ドイツの)コール首相で、私に、「ジャック、君の提案は次の政府間会議まで延期なければ」と言いました。いいえ、と答えたのですが。私は自分の立場を変えず、オランダ人と討議しました。何年もではありません。朝の4時まで、6時間の議論を続け、(イギリスの)メージャー首相にオプトアウトを、つまり社会プロトコルのメンバーにはならないことを受諾してもらい、社会プロトコルを条約に包括することを可能にしたのです。しかしこれは、6年間の仕事でした。私は、自分の時間の20%を社会問題に費やしました。

- 1987年の5月、(パレ・デグモン会合で)「コミッションは、あなた方が社会対話で討議している事柄に関して立法提案を行わないと約束します」と述べました。
これまであなたに述べたことと、同じ内容(traduction)です。私の究極的提案は、2つの意思決定の可能性がある欧州システムの確立でした:政治機関による意思決定と、社会的パートナーによる意思決定です。私は1987年に宣言しましたが、この議論に4、5年かかりました。ティスケヴィッチ氏は、最後の段階で同意したのです。

- あなたの提案の目的は、ティスケヴィッチ氏とUNICEの人たちに社会的パートナーによる決定の検討を強いることでしたか?
最初、彼は反対していました。しかし、幾度もの省察の後…。全てのプロジェクトのグローバルな失敗の危険性の前に、ティスケヴィッチ氏は、欧州建設プロジェクトの本質が、経済的側面などだけではなく、社会的側面を確立する可能性にもあると考えたのです。彼らは、やがて理解しました。それなしのプロジェクトは不可能だったのですから。

- この提案は、ティスケヴィッチ氏の見解を変えるのに有用だったと思いますか?
いいえ、彼は驚いていました。全ての議論は、とても長く、迅速とは言えませんでした。われわれは、新技術や労働者の移動などに関して討議しました。私は議題に乗せるのを強いられたのです。それなしでは、先に進めることが不可能でした。ティスケヴィッチ氏は驚いていました。後に、彼に説明しましたし、このプロジェクトの限界も示しました。われわれの辞任を引き伸ばせないならば、不可能だと。全てが国内の議論になると。しかし反対に、労働市場のこれらの側面に関して合意することは可能だと。

- あなたの意図は、欧州団体交渉を実現することであり、これはその目的を達成するための手段のひとつだったのですね。
そうです。何度も挑発しなければなりませんでした。最初の挑発は、ストックホルムで労働組合を対象とするものでした。私は、社会立法を行えるよう提案すると述べました。次のステップは、経済団体でしたが、最初の課題は労働組合組織、(コミッションの)第5総局と労働組合、異なるタイプの組織の問題でした。例えば、スウェーデンでは全国協約を法として施行できますが、ドイツではできません。

- 欧州には、多数の労使関係システムがあります。コミッションが社会的パートナーと協議して、それが法律になる。このシステムのモデルはありますか?
ありません。別の例をあげましょう。1979年から1984年まで、欧州建設は停滞していました。新しい法律は、何も採択されず、農業や漁業における問題を抱えていました。私が考えたのは、状況を変える方法です。私の主張は、きわめてシンプルでした。1979年から1985年まで、9ヵ国、10ヵ国しかない共同体で、150万人が雇用を失ったということを主張しました。こうした状況を変えなければならないと。そして、変えるには、3つの可能性がありました。まず、条約を改正して中央に権限を与えることです。次に、例えば共通通貨のような新たな推力を見いだすことです。2提案は多くの加盟国によって拒絶されました。そこで、単一市場が実現すれば、それが経済を活性化し、発展と変化をもたらすということを提言しました。これは受け入れられました。その後の私のもっぱらの関心は、普通の労働者でした。しかし、労働組合は、ヨーロッパに関心をもっていませんでした。しばしば反対してもいたのですが、これが現代史であり、私の課題でした。

- この制度は、労働者に関心をもたせるためだったのですか?
そうではありません。別の説明をしましょう。石炭鉄鋼共同体ですが、1950年から1959年まで、共通市場条約にはかなりの進展がありました。しかしその後、世界の深刻な通貨危機もあり、共同体は困難に直面しました。あなたの母国も含め、ダンピングもありました。これが、1970年代、ヨーロッパ(統合)に大きな期待が寄せられなかった理由です。これは、私がヨーロッパ(統合)を再出発するプロジェクトを見いだそうとした理由でもあります。ただ、経済統合だけが唯一のプロジェクトでした。しかし、経済は市民一般から遠く離れています。ヨーロッパは、市民から離れ、無関心の中で進みます。これが、労働組合組織を関与させようとした理由です。私の次のプロジェクトは、人々に、各国の議会それぞれを訪問してもらうことでした。これが、私の戦略でした。多分に、いつも成功したわけではなかったし、失敗もあったと思いますが。

しかし、1980年代の状況は、イギリスの加盟後ですが、ヨーロッパにとって困難な時期でした。イギリスの問題が大きかったのですが、ポルトガルとオランダによっても支持されていました。これが、サッチャー首相に大規模市場の規制を提案した理由です。彼女は同意しました。この同意の後、すでに同意していた他の国々がこの動きに加わったのです。

終戦からの世界の展開を思い起こせば、ヨーロッパはマーシャルプランの恩恵を受けました。ヨーロッパは、1950年代と1960年代という良い時代を経験しました。しかしそれは、グローバル化という新しい事実の前に終焉を迎えたのです。日本だけではなく、韓国やブラジルとの競争があります。私は、フランスとドイツの和解を支持していましたが、それは多くの理由から、私にとってとても重要でした。私の父は、あの戦争で負傷しましたし。私の企ては、生き残るか、それとも衰退するかというものです。私の目的は常に、生き残り、衰退を拒否することにあります。しかし、職場の代表の支援なくしては、このプロジェクトの4割も達成できないでしょう。不可能なのです。レーガン氏も含め、誰も成功していません。

私の思考の中核には、欧州の中央、より安定的なドイツのシステムがあります。ドイツの制度は、法の役割と連邦主義、そして社会的パートナーの行動を結合するものです。この3つの結合が、ドイツ経済の大きな成功の条件でした。私は一部のモデルを志向しています。それは、20歳のとき、戦後生まれた新たな形態の資本主義で何が生じているかを理解するため、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ドイツ、オーストリア、イタリアを旅したことに由来しています。

- 具体的に、社会プロトコルのモデルがあるとお考えですか? それは、ドイツのシステムではないですね?
あなたは社会プロトコルの事例だけを聞きますが…。全てのプロジェクトの詳細を覚えている訳ではありませんが、企業ごとの欧州ワークスカウンシルでは、企業経営者とパーソネル代表が多くのテーマを議論します。欧州ワークスカウンシルは、幾多の良好な結果をもたらす点で最も重要なものでした。マネジメントに関して、労働者の処遇に関して、作業組織に関して、そして効率性に関して。同時に、マネジメントと労働組合の間の関係の改善があり、それは特に1988年から1995年にかけて顕著でした。(社会プロトコルに関しては)最初はコミッションがオーケストラの指揮者でした。しかし後には、コミッションがなくとも、幾多の会合がもたれ、彼らが多くのプロジェクトを議論しました。これが、マーストリヒトの交渉に際し、私が社会プロトコルを守ると主張した理由です。

しかしその後、私が職を離れると、結果を伴わない、いわば協議の式典しかありません。英語のルティーヌ(routine)にあたる言葉を知らないのですが、年に一度、コミッション委員長が全ての団体と会合を持ちます。それぞれの団体がペーパーを用意し、それを読み、この会合が終わります。例えば、あなたは自分の親族が好きではないにもかかわらず、年に一度、会うことを強いられる。そこに、熱意はありません。ディナーの例を繰り返したいのですが、私が妻に説明したのは、晩餐会があるので、家に帰りたいが帰れないのだと。イギリス人と、北欧の人と、イタリア人と…。もし全てを拒否したら、ヨーロッパの失敗に繋がります。ヨーロッパの失敗は、多くの失業を意味します。

- もうひとつお伺いしてもよろしいでしょうか? これが最後の質問なのですが、社会プロトコルではコミッションが社会的パートナーと協議しますが、欧州議会とではありません。これは通常の手続きなのでしょうか?
良い点を指摘されました。条約の基本事項は、残念ながら今日でもまだ実現していません。コミッションは、イニシアティブをとる権限を持っています。例えば、私がこの権限を用いて学生交換プロジェクト、エラスムスを提案します。エラスムスを覚えていらっしゃるでしょうか? 理事会が拒否すれば、私は世論に、学生の交換が否定されたと訴えかけます。立法は、閣僚理事会の権限です。コミッションは、イニシアティブの権限を有します。しかしマーストリヒト条約以後、多くの条件下で議会との共同立法があります。

議会は、満足してはいませんでした。ドロールが社会プロトコルのイニシアティブを進めつつあり、そこでは社会的パートナーもまた、イニシアティブの権限を持つからです。彼らは同意しましたが、満足していた訳ではありません。繰り返しになりますが、社会的側面が最初にあり、それは協力と意見交換、協議過程です。これを拒否しますか? 議会は、まず共同制定者になりました。機関間の争いは次のようなものでした。コミッションは、イニシアティブの権限を守らなければなりません。新たなコミッションは、この点に関して残念ながら余りダイナミックではないのですが。

なぜイニシアティブの権限か? それは、コミッションが絶えず、ヨーロッパの問題を考えているからです。政府もまた、問題でありえます。コミッションにとっては、ヨーロッパの問題が日々の優先事項であり、私はコーヒーを飲む間もヨーロッパのことを考えています。同僚にこうした提案はできないだろうか、と。この権限は、メルケル(首相)とサルコジ(大統領)のコンテクストにおいて、消失しました。立法は閣僚理事会(の裁量)にあり、これが出発点ですが、議会は共同立法者になり、法案に投票するだけでなく討議する可能性を有しています。しかし議会は、この新たな権限にもかかわらず、コミッション委員長が社会的パートナーと多くのイニシアティブを共有することを懸念しています。

私にとって、民主主義は3つのシステムに依拠しています。選挙、補完性、そして社会的パートナーの参加です。これが、私の民主主義の概念です。これは、フランスの概念ではありません。フランス人は、国家のため(に行動し)、そして国家から(得るものを)求めます。2番目は補完性ですが、私の国の一部の人々のグループが適切な行動を取るのに、法律は要りません。それは自由の保証でもあります。カトリックの原則です。プロテスタントにも妥当しますが。自由を実現するために、200人の村が社会生活を組織するために、パリに法律を求める必要はありません。パリの法律があったとしても、実行されないし、社会の機能不全に帰結します。

- 私の準備した質問票は、微に入り細にわたりすぎているようです。
社会プロトコルが、長いプロセスの結果達成されたことを理解する必要があります。1980年代、私の当初の見解は、そうしたプロトコルにはありませんでした。しかし徐々に、私は社会の全ての参加者が発言し、イニシアティブを取り、社会の建設に参加することが可能だろうと考えたのです。私の社会へのアプローチは、フランス的ではなく、私自身のものです。私は、むしろ北欧型の社会主義者です。私が賞賛するのは、スウェーデンであり、ノルウェーです。人間関係の中心性、各々の人間がイニシアティブを取る能力、私にとっては、そうしたものが民主主義の根本的基礎をなしています。

- 1984年か、1985年には、どのようなプロトコルを考えていらしたのでしょう?
私の最初の考えは、ヨーロッパ建設の再開のため労働組合組織の完全な関与を得ることであり、コンセンサスは人と資本、商品、サービスの自由移動を伴う単一市場の達成にありました。お話したように、諸団体の賛否や異なるタイプの制度などの困難を経験しました。少しずつですが、こうした課題を討議する多くの委員会を組織しました。問題は、職業訓練であり、それは残念ながら成功しなかったのですが、新技術、労働者の移動、雇用と解雇の規則などです。少しずつ、諸団体がこの議論のための大きな枠組みの必要性を認識するようになりました。この大きな枠組みが、社会的側面が完全に尊重されるような基本条約の可能性を切り開いたのです。

驚くべきことは、私が提案しても、そこに驚きしかないことでした。もし社会的パートナーがプロジェクトに合意するなら、コミッションはそのプロジェクトを取り上げ、実行することができます。それが、驚きでした。ヨーロッパの政治家の80%が考え方を変えたのです。しかし、このシステムは、スウェーデン、オーストリア、ドイツに現存していますし、1950年代ならばイタリアにもありました。短いですが、これが社会プロトコル形成の歴史です。
* インタビューは、2012年9月5日、パリのサンラザール駅に程近いEUシンクタンク、ノトルヨーロッパ(Nôtre Europe)で行った。中野 聡「ドロール、社会プロトコルを語る(Jacques Delors and the Social Protocol)」『豊橋創造大学紀要』第17号(2013年3月)を参照。

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